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NPOの仲間が亡くなりました

NPOの仲間が亡くなりました

82歳でした

 先日、NPOの仲間(ここでは敢えて匿名にさせていただきます)が亡くなりました。脳溢血とのことでした。82歳でした。彼が倒れたのは自宅です。木曜日に私たちNPOの仲間たちと食事会をし、その2日か3日後に倒れたものとみられます。

画像の説明

 つまり、土曜か日曜日に倒れたのでしょう。というのは、月曜日の朝、彼が社長を務めている会社から「社長が出社しない。先週までは出社していた。これまでは何の連絡もなしに休むことはなかった」というわけです。
 奥様は既に他界されていますから、自宅で1人住まいでした。このため、中に入ろうにも鍵がない。幸い、会社に自宅の鍵を1つ預けていたということで、会社の方が駆け付け、中に入ったところ、自宅内で倒れていたとのことでした。すぐに救急車でかかりつけの市民病院に搬送されました。

救急救命センターで

 病院に搬送後、CCU(集中治療室)に入ることになり、一切面会謝絶。2,3日は、この状態で看護が行われるとのことだったので、私たちも面会に行きませんでした。
 一週間後、一般病棟に移され面会可能になったとのことで、早速、お見舞いに行きました。この市民病院。私たちの住んでいる幸手市からかなり離れています。隣町のその先の市です。車でも40分位はかかります。
 面会に行くと、2人部屋でした。看護婦さんたちのいるナースステーションに一番近い部屋です。見守りに最適な場所という配慮だと思います。換言すれば、それだけ重篤な患者ということでしょう。

殆んど反応なし

 彼は目を閉じたまま、大きく荒い呼吸をしていました。こちらの呼び掛けに、一瞬だけ「反応した」、と思いました。それも目を閉じたままです。しかし、その後は、いくら呼びかけをしても、全く反応がありません。最初の一瞬だけでした。ですから反応したと思ったのは、気のせいだったのかもしれません。
 病状について様子を聞こうと、ナースステーションに声をかけました。ところが、「私は医者じゃないので、・・・」というお答え。担当医も今はいない、とのこと。
 なすすべもなく、その日は、すごすごと帰ることにしました。

2回目も状況は同じ

 1週間後、再度、お見舞いに行きました。すると、部屋は一つだけズレていました。要するに、ナースステーションから1部屋遠くなっていたのです。それだけ見守りの必要が少なくなった、と解釈することもできます。
 でも、実際に面会して見ると、反応レベルは更に低くなり、こちらの呼びかけにも全く反応しません。耳元で大きな声で呼びかけても、何の反応もないんです。目も全く見えていないようです。それなのに、大きく荒い呼吸はこれまで通り、全く変わっていません。手など握っても握り返してきません。
 それから1週間後、再度、お見舞いに訪れました。更に1部屋ズレていました。1週間ごとにナースステーションから段々遠くなって行くのです。本人の状況は、全く変わっていませんでした。病状が安定してきたから、という見方も可能ですが、医者から次第に見放されつつあると見ることも可能です。
 看護婦や医者も病状については、一切話してくれません。「個人情報ですので、ご家族の方以外にはお話しできません」というばかりなのです。ですから、私どもには、快方に向かっているのか、そうでないのか、まったく分かりませんでした。でも、素人ながら、私には、「これは単に死を待つだけ、絶望的状況」だと直感しました。

個人情報保護という妖怪

 病気の見舞いに行っても、個人情報保護を盾にして病状について一切知ることができないというのは、本当に切ないものです。瀕死の状況にある人物の病状について、一体何の情報を保護するというのでしょうか。病状を知られたら困るといっても、病人は目の前にいるわけですから、隠すも何もありません。本人が隠して欲しいと望んでいるとでもいうのでしょうか。個人情報の保護というのは、「本人が知られることを望まない」、ということを前提にしている筈です。こういうのを行きすぎ、やり過ぎ、本末転倒と言わずして何と表現すればよいのでしょう。
 昨今は、学校の名簿や会社の社員名簿でさえ、自宅の表示はなされないようです。個人情報保護の観点からです。これが行きすぎて、学校のクラスの保護者の名簿ですら作成できないという事態が生じ、父兄の連絡網すら作れないというところもあるそうです。
 このようにすべてがエスカレートして、病気見舞いの人にさえ、病状を知らせないことも個人情報になってしまったということです。本当に生きにくい世の中になったものです。真に大事なことは何か、物事の本質は何か、ということが理解できず、単に形式的に物事を判断する人間が多くなってきたということだと思います。要するに、適宜適切に柔軟に判断できる人間が少なくなり、思慮浅薄な人間が多くなってきたということでしょうか。
 私が病院の管理者ならば、「すべての見舞客に誠意をもって病状を説明してよい。責任はすべて自分が負う。ただし、芸能人など、患者が週刊誌沙汰になるような人物の場合だけは連絡せよ」、とだけ言うはずです。

訃報届く

 そして入院後、ほぼ1カ月少しを経過した頃、訃報が届きました。やはり、と思いましたが、私には何故かしら虚しさが募りました。彼は、「完全に死亡するまで発見されなった方が幸せだったのではないか」、という思いが強かったからです。
 なぜなら、彼が病院で過ごした1カ月強、誰とも会話をすることもなく、何一つ美味しいものを食べることもならず、ただひたすら暗闇の中でもがき苦しんだだけだったからです。
 発見があと1日遅くなっていれば、自宅で意識不明のまま絶命していた可能性が高かったと思います。文字通り、多くの人が考える「死ぬ時は家で死にたい」という願望と一致していたかもしれないのです。もっとも「死ぬ時は家で」というのは、「家族に見守られて」という言葉とセットになっていることが前提なんですけどね。なまじ息がある間に発見されてしまったがゆえに、1カ月以上の間、このような苦痛を強いられたのです。
 この状況は、私の母が亡くなった時と全く同じです。私の母も、糖尿病が悪化し、最後は失明に至り、病院のベッドで半狂乱のような状態で亡くなっていきました。その時に、私は、人の死に方というものについて深く考えざるを得なかったのです。

娘さんは施設で療養の身

 生前、彼の家族構成について深く聞くことはありませんでした。彼には施設に入っている娘さんがおられるということを知っていたので、家族のことなど立ち入って聞きにくかったのです。
 ですから推測にすぎませんが、彼が82歳でしたから、多分、娘さんは50歳を越しているのでしょう。
 生前、「盆や正月などの時は、施設の職員も休みに入るので、その間は自宅に連れて来るんだ」とか、「自分が先に死んだ時のことが一番心配だ」という趣旨のことを何度か話したことがあります。
 市民病院に搬送された後も、失われる意識の中で、この娘さんのことを心配しておられたのかもしれません。

私はがんで死にたい

 彼のような亡くなり方が今は当たり前になってしまいましたが、私は、決して病院で死にたいとは思いません。輸血用の点滴やら栄養剤、酸素吸入など、マカロニサラダのスパゲッティのように、体中チューブだらけにして死ぬのは真っ平ごめんです。
 私は、もう20年以上も前から、「死ぬ時はガンに限る、がんで死にたい」、と思ってきました。これは近藤誠先生の「患者よがんと闘うな」という著書を読んで以来、この先生の言っておられることは間違っていない、と確信したからです。
 以来、新潟大学の阿保徹教授、船瀬俊介氏の著作、中村仁一医師の著作などを勉強するうちに、更にその意を強くし、70歳を越した今日まで、この考えは決して間違っていない、と確信をしています。
 ここで長々と自説を述べるのは適当ではありませんので、できればこちらかのコーナーからご覧いただければ幸いです→私はがんで死にたい

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